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 模写銅板碑 

 梶原景時公 長男 景季公 

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 梶原七​氏の墓 

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 梶原景時 館址 

梶原景時と一之宮館址

寄稿者: 入沢一三氏

梶原景(かじわらかげ)時(とき) (生年不明~一二〇〇)は「鎌倉(かまくら)本體(ほんたい)の武士」といわれ源 頼朝が今までの天皇や平氏を中心とした領地支配から武家による政治を行おうとする意志をよく理解し、頼朝の信頼厚く、鎌倉幕府の基礎を築いた、文武ともに優れた武士(もののふ)でした。

梶原氏は現在の、桓(かん)武(む)平氏(へいし)の流れをくむ鎌倉党の一族で、鎌倉市梶原を本拠とし大庭氏(藤沢市) 俣野氏(藤沢市) 長尾氏(鎌倉市) らの同族がいました。

治承四年(一一八〇)伊豆に流されていた源頼朝が平家追討の兵を挙げましたが八月二十四日、石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山(すぎやま)(湯河原町)に逃れ、「鵐の岩谷」(湯河原町、真鶴町の両説あり) に潜んでいました。

大庭景親率いる平氏方の一員として参陣していた梶原景時は、頼朝を見つけたものの討つことをせずに救いました。これが景時と頼朝の出会いでした。

以来、源平の合戦で多くの功績を挙げたほか、頼朝の側近として侍(さむらい) 所(どころ) 所(しょ) 司(し) (軍事や警察権を司る役所の長官)をはじめさまざまな重職に就きました。

頼朝の死後、正洽元年 (1199 )十月、結城朝光と言う武将が謀反(主に反逆すること) の疑いがあることを将軍 頼家に告げ口をしたとの理由で、御家人(幕府に従う家来) 六十六人の連署によって弾劾され弁明の機会も得られないまま一宮(いちのみや)(寒川町一之宮) に下向しました。

再度、鎌倉に戻りますが、十二月鎌倉追放が正式に決定され鎌倉の館は取り壊されました。

正治二年一月二十日、景時、長男景(かげ)季(すえ)らの一族は、朝廷や西国武士団の支援をもとに、甲斐源氏の武田有義を将軍に擁立し再起を図ろうとして一宮館をあとに京都に向けて出立します。

その途中、駿河国清見関(静岡市)で在地の武士吉川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山で最期を遂げました。景時以下33人と伝えられます。

頼朝亡き後の幕府内部の指導権を手にしたい北条氏と頼朝の側近として職務に忠実すぎた景時を快く思わなかった御家人達との思惑が一致したことが背景にあったと言われています。

これらのことは、鎌倉時代にかかれた、「愚管抄(ぐかんしょう)」「吾妻(あづま)鏡(かがみ)」「平家物語」「義経記(ぎけいき)」などの書物から読み取れます。

梶原景時は、江戸時代の歌舞伎や浄瑠璃の脚本の影響もあり、景時の讒言(ざんげん) (つげぐち) に依って源義経が兄、頼朝との溝を深め義経の悲哀が生まれたと言った風潮が生まれました。
弱いものいじめをするもののたとえのように言われ、反対に弱いものに味方したくなるような日本人の気風を表す「判官(はんがん)贔屓(びいき)」、(義経の官職名での呼び方が源九郎判官義経) の語源ともなった、悪役を引き受ける羽目になってしまいました。

反対に、諏訪大社下社(長野県下諏訪町)の神官の長官であった金(かな)刺(さし)盛(もり)澄(ずみ)と言う武将を救ったことから、景時公の供養の塚が作られており、今でも下諏訪町で慰霊祭が行われている事。鎌倉の建長寺では、景時のための「梶原(かじわら)施餓鬼(せがき)」が毎年7月15日に続けられていること。


源平の生田の森の合戦で親子の厚い情愛を表す「二度之懸(にどのかけ)」の逸話、歌舞伎「梶原平三誉石切」などでは、人望と人情に厚い梶原像が取り上げられています。


梶原景時の評価について賛否両論が話題に上りますが、今でも景時の生涯が論議に値する立派な武将であったことの証明といえます。

こうした鎌倉時代を代表する武将が、過去この寒川町を拠点に活躍をしたことは私たちの誇りといえます。


館跡は、一宮天満宮を西端に現在の大山街道を挟んで約 ヘクタールと伝えられ、他に、館の堀跡、一宮の館で戦った「梶原七氏の墓」などが館跡に残っています。

また、「梶原七氏の墓」の入り口には、「浜降祭」の記念碑があります。


「国府祭」の帰路、須賀若衆の狼藉によって相模川に流出した寒川神社の御神輿を、南湖の漁師「孫七」さんが見つけ、寒川神社に届ける際、御神輿を清めたと言い伝えがあり、いまも浜降祭の帰路の行在所となっています。

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